一瞬、質の悪いエイプリルフールだと思ったのだが、それは事実だった。
自分の音楽黎明期にお世話になった人の突然の訃報。
正確なお年は分からないけど、まだ還暦前ではないだろうか。
その日の午後までFacebookには投稿をしていたというのに。
詳しいことは分からないが、突然倒れたらしい。
彼と最後に会ったのはコロナ前、2018年の12月。
実は、先月、久しぶりに再会できるチャンスがあった。
自分の集大成と呼べるライブに、直々に声をかけさせて頂いた。
早い段階で、彼からは「行きます」の返事。
普段、自身の演奏活動が忙しく、観覧することはほぼ無い方だったので。
その返事がとても嬉しかった。
当日が近づいて、再度連絡。
その時も、来場予定ということで確認をしていた。
自分の成長した姿を見てもらえることを心から楽しみにしていた。
そして迎えた当日。
彼の姿を見ることはできなかった。
とても残念だったけど、まだ流行り病も収まりきっていなかった頃。
その他にも不慮の事故や身内のご不幸など、やむを得ない事情があったかも知れない。
来場されなかったことについて、自分から連絡をすることは憚られる。
何かあったならあったで、その後連絡が来るものだと思っていた。
それから数日後。
Facebookに彼の投稿が上がっていた。
彼のいつもどおりの投稿。
そこからは、健康や安全が脅かされていた様子は伺えなかった。
・・・正直、がっかりした。
そんな投稿する前に、するべきことがあったでしょう?
約束を違えることに何の罪悪感もないのですか?
それとも、ハナから来る気は無かったのに、自分をからかっていたのですか?
彼に対する不信感だけが募る。
文句のひとつも言おうと思えばできたけど、それすらする気になれなかった。
それをしたところで何がどうなるわけでもないから。
そして思った、もう彼とは会うことは無いだろうと。
それから一月もしないうちに、彼とは本当に二度と会うことができなくなった。
なんなんだろう、このやり場のない気持ち。
もし、あの日彼が会いに来てくれていたならば。
自分の成長した姿に、何か好意的な言葉をかけてくれていたとしたなら。
この訃報に対して、自分はどれだけ悲しみに打ちひしがれていただろう。
または直接は会えなかったとして、彼から何かしらの説明があったならば。
やはり心が締め付けられる思いであったに違いない。
だけどその実際は、驚きだけが大きく、悲しいという感情が追い付かない。
ただ、残念なのは、もう二度と彼に自分の成長した姿を見せられないこと。
それと、自分がどれだけがっかりしたかを直接伝える機会が消滅したこと。
突然、最期を迎えることになった時、彼が何を思ったかはもちろん分からない。
もしかしたら、自分の命が尽きたことさえ気づいていないかも知れない。
いずれにしても今の自分にできることは、ただ冥福を祈るだけ。
なんとも言えない複雑な感情はここしばらく収まりそうもない。
そしてまた、自分のこの想いを強くする。
行きたいとこは行けるうちに。
会いたい人には会えるうちに。
やりたいことはできるうちに。
いつ何があるか分からないから。
何があっても良いように。
精一杯、今を生きる。
精一杯、今を生きる。
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