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  • 執筆者の写真たかまつなおき

圧倒的に足りないもの

 先日、久しぶりに映画館に足を運び「帰ってきた あぶない刑事」を観た。思春期の入り口に夢中になって観ていたテレビドラマの最新版だ。その際、映画館の会員カードも作成してきた。

 映画が嫌いというわけではないのだが、自分はあまり映画を観ない。テレビドラマに至ってはもう20年ぐらい観ていない。(しかも今はテレビのない生活)良質なものをあまり知らないからかも知れないが、映画にせよドラマにせよ、制作者の演出とか意図、またはスポンサーがらみの「大人の事情」が垣間見えた途端、興覚めしてしまう。観ていて「そんなはずがない」と思う天邪鬼な自分がいて、どうにもその世界に没頭できないのだ。(ドキュメンタリー映画というジャンルがあるが、ここでは話題の対象外)

 それから、物語を作る上で必要不可欠とされる「困難」というエピソード。この仕掛けがないとストーリーが盛り上がらない、人々の心は動かないとされるのだが、自分自身としてはこの「困難」が好きではないというものある。できれば、人が苦しんでいたり、困っていたりするシーンは観たくない。できれば、ずっとハッピーな話の展開を観たいと思うのだが、そんな作品に触れたことがないので、実際に見たらやっぱり物足りないと思うのかも知れないのだが…。

 映画が嫌いというわけではない、と先述したが、こうしてあらためて自分の性格を分析してみると、どうやら映画鑑賞に向いてない性格のようだ。まぁ、娯楽というものは自分が本当に面白いと思うものを嗜むものなので、興味のない分野は放置していれば良い。


 それにも関わらず、映画館の会員カードを作ったという自己矛盾。それは、職場の最寄り駅に映画館が直結されているという好条件があり、今一度映画という文化から創作のインスピレーションを得ようという気持ちに至ったからである。

 今一度と表現したのは、かつても通勤定期券内に映画館があった時や、一時動画ストリーミング配信を利用できる環境下にあった時も同様の試みをしたことがあったからだ。そのどちらも長続きしなかったことから、自分は本当に映画への興味や愛着が薄いとは思うのだが、その興味の薄い分野に敢えて自分を置くことにした。


 なぜ、そういう思いに至ったかというと、自分は大衆娯楽である映画や音楽、文学に触れた経験、知識や教養があまりにも少ないからだ。著名人の自伝や伝記については多少興味があり、好んでその類の本を読むのだが、文化人として名を残している人たちは、ほぼ例外なくそのジャンルの創作物に対して、若い時から異様なほど執着し、時間と金をかけて自分の血肉として吸収していたことが分かる。学生時代に映画館に入りびたりだったとか、レコードを買い漁りコンサートにも足しげく通ったとか、深夜放送のラジオから流れる楽曲を片っ端からカセットに録音したとか、そういうエピソードは数知れない。

 その人たちの多くは東京などの都会に生まれ育ち、映画にせよ音楽にせよ、身近に触れることのできる「地の利」というものがあった。また、そういう娯楽を親しむことのできる経済的環境にも恵まれていたということもあるだろう。それに比べると、自分は徳島県の片田舎、映画館に行くことなど一大イベントだったし、コンサートなど地元で体験したこともない。生まれた場所で圧倒的に不利な状況にあったと嘆くことは簡単だし、実際、そういう劣等感はずっと持ち続けていた。

 しかし、最近になってそれはやはり間違いだったとも気付く。現在ほど都会と地方の格差は縮まっていなかったとは言えども、自分が中学生の頃には町にレンタルCD・ビデオ店もできたし、ラジオだってもちろん聴けた。コンサートなど生の体験は無理にしても、自分が本当に興味を感じていたならば、それらを使って没頭することだってできただろう。我が家にビデオデッキが導入されたのが、自分が高校生になってからと比較的遅かったことも自分の言い訳にしていたが、それだって、本当に自分が心から望んでいたものであれば、それまでの時間を取り戻すべく映画鑑賞に没頭していたことだろう。


 自分で言うのも何だが、器用貧乏なところがある。興味を持って弾き始めたギターも「Fの壁」は比較的すんなり超えられたし、もっと言えばギターを手にして2週間目には歌を作り始め、3週間目には1曲完成した。中学2年生の冬のことである。

 しかし、そんな感じだったから、ギターを徹底的に練習して、有名な曲の完コピを目指すということをせず、適当に歌の伴奏さえできれば満足してしまった。もともと楽器の音に興味は薄く、歌を聴くときはもっぱら歌詞を重視していた。だから、意味を直接理解できない洋楽にも興味がほとんど湧かなかった。良い歌だと思っても、ただのBGM、詞や楽曲を深堀して聴くなどということはなかった。

 ギターを手にして、歌本でいろんなヒット曲を弾き語っているうちに、何となくコードやコード進行を覚え、自分で歌を作るようになった。誰に教わったわけではないが、何となくできてしまった。その「何となくできてしまった」ものの延長線上に、今の自分がある。最初は「ただの趣味」だったが、いつしかそれを飛び越え、いつしかステージに対して「責任」をもつようになった。音楽を生業にしている人達の領域にほんの少し触れることもできた。そして、そこで身をもって感じた、自分のバックボーンの薄さというわけである。


 映画を積極的に観ようと思うのと同時に、たくさん本も読むことを心掛けている。幸い、図書館も職場の近くにある。今、とても恵まれた環境下に過ごしている。この状況を精一杯活用して、少しでも多くのことを学び、今まで触れて来なかった時間を取り戻したいと思っている。

 今更ながら、作詞入門や作曲入門などの本も読んでいる。実際、作詞入門書を斜め読みした日に、一曲歌ができた。その内容の多くは、これまで自分でも何となく意識していたことだったし、真新しいものではなかったが他者の言葉でまとめられたそれは、再認識としてはとても有効だった。そこに少しのテクニックを意識するだけで表現の幅が広がった気がする。

 今、作曲の本も読んでいる。そこには数多くのヒット曲が参考資料として書かれているのだが、それらは検索すると直ちに視聴することができる。音楽を無償で聴けることへの是非についてはここでは触れないが、本を読むことで、自分一人では到底及びもしなかった知識を短時間で得ることができる。便利なものは便利に活用し、これからの創作活動に繋げていきたい。


 まだまだこれから、もっともっとこれから。やりたいことは、出来るうちに。


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