これは主に小学生の時の記憶。
宿題を忘れたら、漢字100回追加。
他にも何か忘れ物をしたら、休み時間なしで学習。
そうじをさぼっても漢字。
その他、何か悪いことして叱られたら、算数。
もしくは、掃除とか、雑用とか。
とにかく、「学校生活」において。
何かしらのペナルティに対して。
「学習」や「労働」があてがわれることは珍しくなかった。
自分が通った学校がたまたまそうだったのかも知れないが。
自分の親世代の人にも、同様の記憶があったようなので。
少なくとも我が地域では、慣習として。
学校ではそのようなことが横行していたのかも知れない。
そして恐らく、日本各地において。
そのような傾向はあったのではないだろうか。
誰が始めたのか分からないが。
何かしらのペナルティとして、人に苦痛を与える。
それは、戦前の教育の名残なのだろう。
世の中の制度が変わっても。
簡単に人の思想までは変えられない。
もちろん、何かいけないことをしてしまったら。
その代わりの何かで償うことは必要だろう。
法律の罰則がそれに当たるし、文字通り「代償」だ。
しかし、その「代償」がなぜ「漢字」だったのだろう。
なぜ、「掃除」だったのだろう。
文字は、人とのコミュニケーションツールとして。
または、様々な記録を残すため。
昔から、人が知恵を絞って発明してきたもの。
本来文字は便利なものだったはずだ。
日本の場合、漢字は中国からの輸入品で。
日本特有のかな文字も、漢字が由来となっている。
確かに、世界の中でも複雑な言語だとは思う。
それにしても、新しい漢字や言葉を獲得することは。
「喜び」なのではないだろうか。
また、「掃除」という労働。
確かに汚れと向き合うのは、嬉しいことではない。
しかし、その汚れを取り除いたときのすがすがしい気持ち。
またはきれいになった場所や物から。
他者から感謝される喜びを得ることもある。
「働く」とは「傍楽」とも言い。
自分の周りにいる人を楽にするという意味がある。
しかし、学校ではペナルティとされてしまう。
例として、ここでは漢字、掃除を挙げたが。
それらは「学習」「労働」と置き換えられるだろう。
学校、特に小学校において。
我々は、子どもの頃から「学習」や「労働」は。
いやいや、または無理にやらされるもの。
そういう認識にさせられてきたのではないだろうか。
また、清掃業務従事者に対する。
差別や偏見を助長するようなことはなかっただろうか。
少なくとも、自分はそういうことならないよう。
教壇に立っていたときは気をつけていた。
しかし、そのようなローカルルールは。
学級担任制の小学校では、なかなか実態が見えない。
果たして、今はどうなのだろう?
安易に学習を罰にする教師など、過去の人だと思いたいが…。
ただし。
罰則化するまでもなく。
今では、子ども達にとって、「学び」が。
大変なもの、面倒なもの、嫌なものとして。
当たり前のように思われているのも現実だ。
これは、昨年まで24年間教壇に立ってきて。
常に感じてきたことである。
自分の「指導力不足」と言われればそうなのだが。
それだけではなく。
今の学校制度そのものに問題がないわけではない。
そのことについては、また次回意見を述べたいと思う。
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