前回は、学習を罰にすることなど言語道断ということを書いた。
しかし、罰にしなくても、学びを苦痛に思う児童・生徒は多い。
言葉は、もともと意思や感情を正確に伝えるために発明された。
言葉を覚え、自由に綴れるようになることは、喜びだったはずだ。
なのに、どうして、こうも漢字が嫌いな子どもが多いのだろう。
それは、やはり「漢字」」だからだろうか。
本場、中国では漢字が複雑すぎて、簡略化してるという。
(愛という字から、心を取ったというが、それってどうなん?)
英語圏とか、その他、アルファベットのみの地域の。
子ども達の母国語の学習への意欲ってどうなっているのだろうか。
もし、そこでは「読み書き」ということに抵抗が少ないのであれば。
日本は、母国語という部分で、国際的にハンデがあると言わざるを得ない。
漢字に加えて、仮名文字二種類、それに加えてアルファベット。
ただ、日本で生まれて、日本で暮らす以上。
そのことを嘆いていては何も始まらない。
原点に戻ると、言葉を習得することは喜びだったはずだ。
そして、その喜びは誰もが経験したはずだ。
初めて、意味を成す言葉を発した時、周囲の大人はさぞ喜んだことだろう。
最初は意味が分からなくても、周りが喜ぶ姿を見て。
たくさんたくさん言葉を発したはずだ。
そして、次第に言葉数も増え、簡単な文字も読めるようになる。
このときは、それが嬉しくて、子どもは何でも質問する。
聞かれた者は、それを知っていれば喜んで教える。
「学習」など硬い言葉ではなく、本当の学びがそこにある。
知っていることは、なんでも発言したいし。
書ける文字や言葉は、どんどん書いていきたい。
本来、子どもは自分を表現することが大好きなのだ。
しかし、そんな自由な学びは、就学前で終わってしまう。
学齢期になると、習熟度は一切無視され、横一線に並ばされてしまう。
全員とは言わないが、今では、就学前にある程度の。
仮名文字や漢字を習得してくる児童は多い。
その他の教科の内容にしても、そう。
だが、知っている文字があっても。
「まだ習っていない」という理由で書かせないこともある。
なぜなら、授業はカリキュラムに沿って。
一斉に進めていかなくてはいけないから。
いや、実際はそんなことはない。
「一斉に進めなくてはならない」と信じ込んでいるから。
誰が? 教える側が。
そうしないと、収集がつかなくなるから。
そんなことを繰り返していくうちに。
だんだんと、子ども達の「表現したい」という意欲は低下する。
「学びたい」という気持ちも低下する。
自分がこれを学びたいと思っても、今日、学校で学ぶことは。
もう、すでに決められていて、本人の意思ではどうにもならないから。
「学校の学習」がつまらないのは。
本人の意思に関わらず、「強制的にやらされているから」に他ならない。
自分で本当に必要だと思わないことには。
勉強に限らず、何をしても面白くないものだ。
もちろん、嫌なことでも頑張る必要はあるだろう。
それを乗り越える忍耐力を養うことは、人としてとても重要だ。
しかし、その忍耐力を身に付ける手段が。
「学習」である必要もないはずだ。
もちろん、去年まで学校側にいた人間として。
学校現場の人達は、本当に真面目に、よく頑張っていると思う。
現場を離れて、無責任なことをいうつもりもない。
だけど、現場を離れたからこそ、言えることもあるはずだ。
今の学校現場は、学習面に関しては、指導内容が多すぎる。
教科は昔からたくさん増えたのに、一つも減っていない。
何もかもが「大切なこと」という理由で。
詰め込むだけ詰め込んだ結果のカリキュラム。
それを決められた(というか、勝手に決めた)時数で終える必要がある。
もう、現場の教師は、それを無難に終えるだけで精一杯。
だから、「何のために」学習をするのか。
そういうことを、きちんと子どもに伝えきれてないのではないか。
その単元の目標や、「本時のねらい」とか、そういうことでなく。
学ぶことの喜び、楽しさ、そういうものを。
子どもが小さいうちから、しっかりと伝える余裕がないのではないか。
学校のせいばかりでもない。
「学校の勉強」以外に、子ども達が楽しいと思えるもの。
言わば、「子どもの娯楽」が溢れかえっている。
娯楽なんてのは、昔は大人のためのものだった。
その娯楽を嗜むためには、教養が必要だった。
しかし、教養などなくても、識字できなくても。
簡単に遊べたり、楽しんだりできるものが増えた。
人間の脳は、一度楽しいことや快楽を覚えてしまったら。
決して忘れられないどころか、現状では満足できなくなってしまう。
こうして、学習が苦痛である理由を見ていくと。
なんだか、もう、どうしようもないような気持にさえなってしまう。
しかし、絶望ばかりではない。
必要に迫られたとき、人は本当に学び始める。
最後の勤務校でこんなことがあった。
全国的には遅いぐらいだが、自分の最終年の後半。
ようやく、児童一人一台のタブレット端末が導入された。
このツールは、授業に対する児童の意欲を劇的に変えた。
児童全員が、それぞれの画面を共有できる。
そのシステムを利用して、算数の問題を解き、考えを共有し合った。
考えを共有するということは、古くからあった学習方法だ。
しかし、ノートに考えを書いて見せ合おうとしても。
一切それに取り組まない児童がいた。
その子が、タブレットになった途端、授業に参加し始めたのだ。
恐らく、画面で自分のところだけ「未提出」となっているのが。
たまらなく嫌になったのだと思われる。
また、パソコン操作そのものが楽しかったのかも知れない。
いずれにしても、自分のクラスでは、タブレットを使った授業が中心となった。
児童が互いの考えを見ながら、考えを分類したり。
自分と異なる考え方に質問したり、横のつながりも見え始めた。
自分の考えを表現し、そこから交流することは。
やはり楽しいことのだと感じた。
また、その発表の仕方として。
自分が関わったときは、3つの手段をとった。
一つ目は、ノートに書いた自分の考えを写メに撮って送る方法。
二つ目は、写メなどの画像に、タッチペンで考えを書き加えるもの。
三つ目は、一度ノートに書いた自分の考えをパソコンで編集したもの。
これは、ローマ字入力ができることと、何より早く課題を終えることが求められる。
当然、自分は一つ目を基準とした。
まず、自分の考えを、ノートにしっかり表現できることが最重要。
この学習の良さは。
まず、ノートに書く字が丁寧になったこと。
教師がいくら「丁寧にかけ」と言っても改善できなかったことが。
友達に「読めない」「汚い」と一言言われただけで改善される。
また、人がローマ字入力しているのを見ると。
自分もそれがしたくなり、そこから本気でローマ字を学習する。
つまり、そこに本当に自分の中においての必要性が芽生えたとき。
人は、本気で学習をするようになる。
ローマ字で自分の考えを打てるようになり、それで発表できることに。
頑張ったその子は、喜びを覚えた。
その喜びを一度覚えると、自信が芽生え、他のことにも頑張れるようになった。
新しく習得した知識や技術は、実生活で生きてこそ。
ここまで長々と書いてきて、「学習」と「学び」ということについて。
自分は言葉を使い分けてきたことを改めて認識した。
「学習」は、ある意味、強制的である必要もある。
人の動機づけには、その人の好きな分野だけでは不十分だからだ。
本人の意欲に関わらず、ローマ字を学ばせることは必要。
そのローマ字をいかに、本人が使いたいと思うようになるか。
あ、最初漢字だった話題がローマ字になってしまった。
拙い文章になってしまった。
自分も、まだまだ、学びの途中(笑)
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