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学ぶことは、楽しいことだ

  • 執筆者の写真: たかまつなおき
    たかまつなおき
  • 2023年1月26日
  • 読了時間: 6分

前回は、学習を罰にすることなど言語道断ということを書いた。

しかし、罰にしなくても、学びを苦痛に思う児童・生徒は多い。


言葉は、もともと意思や感情を正確に伝えるために発明された。

言葉を覚え、自由に綴れるようになることは、喜びだったはずだ。


なのに、どうして、こうも漢字が嫌いな子どもが多いのだろう。

それは、やはり「漢字」」だからだろうか。

本場、中国では漢字が複雑すぎて、簡略化してるという。

(愛という字から、心を取ったというが、それってどうなん?)


英語圏とか、その他、アルファベットのみの地域の。

子ども達の母国語の学習への意欲ってどうなっているのだろうか。

もし、そこでは「読み書き」ということに抵抗が少ないのであれば。

日本は、母国語という部分で、国際的にハンデがあると言わざるを得ない。

漢字に加えて、仮名文字二種類、それに加えてアルファベット。


ただ、日本で生まれて、日本で暮らす以上。

そのことを嘆いていては何も始まらない。

原点に戻ると、言葉を習得することは喜びだったはずだ。

そして、その喜びは誰もが経験したはずだ。


初めて、意味を成す言葉を発した時、周囲の大人はさぞ喜んだことだろう。

最初は意味が分からなくても、周りが喜ぶ姿を見て。

たくさんたくさん言葉を発したはずだ。


そして、次第に言葉数も増え、簡単な文字も読めるようになる。

このときは、それが嬉しくて、子どもは何でも質問する。

聞かれた者は、それを知っていれば喜んで教える。

「学習」など硬い言葉ではなく、本当の学びがそこにある。


知っていることは、なんでも発言したいし。

書ける文字や言葉は、どんどん書いていきたい。

本来、子どもは自分を表現することが大好きなのだ。

しかし、そんな自由な学びは、就学前で終わってしまう。

学齢期になると、習熟度は一切無視され、横一線に並ばされてしまう。


全員とは言わないが、今では、就学前にある程度の。

仮名文字や漢字を習得してくる児童は多い。

その他の教科の内容にしても、そう。

だが、知っている文字があっても。

「まだ習っていない」という理由で書かせないこともある。

なぜなら、授業はカリキュラムに沿って。

一斉に進めていかなくてはいけないから。

いや、実際はそんなことはない。

「一斉に進めなくてはならない」と信じ込んでいるから。

誰が? 教える側が。

そうしないと、収集がつかなくなるから。

そんなことを繰り返していくうちに。

だんだんと、子ども達の「表現したい」という意欲は低下する。

「学びたい」という気持ちも低下する。

自分がこれを学びたいと思っても、今日、学校で学ぶことは。

もう、すでに決められていて、本人の意思ではどうにもならないから。


「学校の学習」がつまらないのは。

本人の意思に関わらず、「強制的にやらされているから」に他ならない。

自分で本当に必要だと思わないことには。

勉強に限らず、何をしても面白くないものだ。


もちろん、嫌なことでも頑張る必要はあるだろう。

それを乗り越える忍耐力を養うことは、人としてとても重要だ。

しかし、その忍耐力を身に付ける手段が。

「学習」である必要もないはずだ。


もちろん、去年まで学校側にいた人間として。

学校現場の人達は、本当に真面目に、よく頑張っていると思う。

現場を離れて、無責任なことをいうつもりもない。

だけど、現場を離れたからこそ、言えることもあるはずだ。


今の学校現場は、学習面に関しては、指導内容が多すぎる。

教科は昔からたくさん増えたのに、一つも減っていない。

何もかもが「大切なこと」という理由で。

詰め込むだけ詰め込んだ結果のカリキュラム。

それを決められた(というか、勝手に決めた)時数で終える必要がある。

もう、現場の教師は、それを無難に終えるだけで精一杯。

だから、「何のために」学習をするのか。

そういうことを、きちんと子どもに伝えきれてないのではないか。


その単元の目標や、「本時のねらい」とか、そういうことでなく。

学ぶことの喜び、楽しさ、そういうものを。

子どもが小さいうちから、しっかりと伝える余裕がないのではないか。


学校のせいばかりでもない。

「学校の勉強」以外に、子ども達が楽しいと思えるもの。

言わば、「子どもの娯楽」が溢れかえっている。

娯楽なんてのは、昔は大人のためのものだった。

その娯楽を嗜むためには、教養が必要だった。


しかし、教養などなくても、識字できなくても。

簡単に遊べたり、楽しんだりできるものが増えた。

人間の脳は、一度楽しいことや快楽を覚えてしまったら。

決して忘れられないどころか、現状では満足できなくなってしまう。


こうして、学習が苦痛である理由を見ていくと。

なんだか、もう、どうしようもないような気持にさえなってしまう。


しかし、絶望ばかりではない。

必要に迫られたとき、人は本当に学び始める。

最後の勤務校でこんなことがあった。

全国的には遅いぐらいだが、自分の最終年の後半。

ようやく、児童一人一台のタブレット端末が導入された。

このツールは、授業に対する児童の意欲を劇的に変えた。


児童全員が、それぞれの画面を共有できる。

そのシステムを利用して、算数の問題を解き、考えを共有し合った。

考えを共有するということは、古くからあった学習方法だ。

しかし、ノートに考えを書いて見せ合おうとしても。

一切それに取り組まない児童がいた。

その子が、タブレットになった途端、授業に参加し始めたのだ。

恐らく、画面で自分のところだけ「未提出」となっているのが。

たまらなく嫌になったのだと思われる。

また、パソコン操作そのものが楽しかったのかも知れない。

いずれにしても、自分のクラスでは、タブレットを使った授業が中心となった。


児童が互いの考えを見ながら、考えを分類したり。

自分と異なる考え方に質問したり、横のつながりも見え始めた。

自分の考えを表現し、そこから交流することは。

やはり楽しいことのだと感じた。


また、その発表の仕方として。

自分が関わったときは、3つの手段をとった。

一つ目は、ノートに書いた自分の考えを写メに撮って送る方法。


二つ目は、写メなどの画像に、タッチペンで考えを書き加えるもの。


三つ目は、一度ノートに書いた自分の考えをパソコンで編集したもの。

これは、ローマ字入力ができることと、何より早く課題を終えることが求められる。


当然、自分は一つ目を基準とした。

まず、自分の考えを、ノートにしっかり表現できることが最重要。


この学習の良さは。

まず、ノートに書く字が丁寧になったこと。

教師がいくら「丁寧にかけ」と言っても改善できなかったことが。

友達に「読めない」「汚い」と一言言われただけで改善される。


また、人がローマ字入力しているのを見ると。

自分もそれがしたくなり、そこから本気でローマ字を学習する。


つまり、そこに本当に自分の中においての必要性が芽生えたとき。

人は、本気で学習をするようになる。

ローマ字で自分の考えを打てるようになり、それで発表できることに。

頑張ったその子は、喜びを覚えた。

その喜びを一度覚えると、自信が芽生え、他のことにも頑張れるようになった。


新しく習得した知識や技術は、実生活で生きてこそ。

ここまで長々と書いてきて、「学習」と「学び」ということについて。

自分は言葉を使い分けてきたことを改めて認識した。

「学習」は、ある意味、強制的である必要もある。

人の動機づけには、その人の好きな分野だけでは不十分だからだ。


本人の意欲に関わらず、ローマ字を学ばせることは必要。

そのローマ字をいかに、本人が使いたいと思うようになるか。


あ、最初漢字だった話題がローマ字になってしまった。

拙い文章になってしまった。

自分も、まだまだ、学びの途中(笑)

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